当社オフィスと三鷹
- lechevalierblanc18
- 2021年11月30日
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当社は、東京都三鷹市下連雀3-35-1ネオシティ三鷹ビルにあります。ネオシティ三鷹ビルはJR三鷹駅直通で徒歩1分の場所に建つ14階建ての、三鷹駅前のランドマーク的な建物です。
三鷹の住宅地といえば、都心に近いながらも、玉川上水や井の頭公園などの豊かな自然が残る、閑静な住宅街として、かなり評価されているようで、市の人口は20万人にせまり、人口減社会でありながらも、市内人口は増え続けています。
しかし、私たちが今、生活をしている三鷹の町。
昔は、どんなだったのでしょうか。
三鷹が開発されて人が住むようになったのは、江戸時代初期の頃からです。現在のネオシティ三鷹がある三鷹駅前の場所は、下連雀(しもれんじゃく)という地名ですが、これは神田連雀町に由来しています。
江戸城下の神田連雀町に住む人たちが、明暦の大火のあと、幕府による区画整理事業で、三鷹の土地にやってきたのでした。
当時の三鷹は田舎でも農村でもなく、ただの荒野にすぎません。
そんなところに、江戸城下の町人として、当時としては恵まれた、都会的な生活をしていた人たちが、やってきたのでありました。
神田連雀町から移住した住民たちは、それぞれ農地をもらい受け、畑を耕しました。しかし、これまで江戸城下で暮らしていた者が、いきなり農作業をする、というのはとても大変なことで途方に暮れていただろうと思われます。
村の名前は、もともと住んでいた神田連雀町にあやかり、連雀新田と名づけました。(その後、練馬からの開拓農民が中心となって開いた上連雀村と区別して下連雀村となる)
これが三鷹下連雀の起源なのです。
神田連雀町から三鷹への移住民のなかで、指導的な立場だったのは、名主の松井治兵衛さんです。
松井家は下連雀の名主を代々務めた家柄で、宝永2年(1705)の御年貢名寄帳によれば、松井家は12町5反の大地主でした。江戸城下に近い武蔵野地域でこれだけの規模の大地主となれば、かなりのものです。
実は私は、この下連雀の名主、松井治兵衛さんの子孫にあたります。
当社のオフィスが入るネオシティ三鷹ビルは、下連雀地域を一望できます。
オフィスから下連雀の街並みを眺めるたびに、松井治兵衛さんが江戸城下からやって来たころはどんな場所だったのだろう?と、荒れ地だらけの光景を想像してみるのでした。
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